平成10年度 国際関係 国家一般職

問題

第二次世界大戦後の我が国の外交に関する次の記述のうち,妥当なものはどれか。

1 アメリカ政府は,冷戦の本格化とともに我が国の経済復興と輸出増進に関心を深めた。そのための前提条件の一つであった我が国のGATT加盟は,サンフランシスコ講和条約の発効とほぼ同時に実現した。この背景には,ソ連との対抗関係上西側諸国間の結束の強化を求めるイギリス,オーストラリアなどの強い要求があった。

2 サンフランシスコ講和条約が成立した後も,我が国とソ連の間には国交のない状態が続いていた。しかしながら1954年12月に発足した鳩山内閣は,吉田前政権との違いをだすためにも日ソ国交回復交渉に積極的に取り組んだ。当時はいわゆる55年体制の形成期で自民党内に意見の不統一もみられたが,鳩山首相は日ソ平和条約を締結し日ソ国交回復を実現した。

3 岸内閣の最大の外交懸案の一つは,日米安全保障条約の改定であった。岸首相はこの改定により旧条約の片務性が解消されると主張したが,野党・世論は反発し安保反対運動が展開された。このため岸首相は国会で安保条約改定について採決を図ることができないまま退陣し,安保条約の批准手続はすべて岸内閣に続く池田内閣の手にゆだねられることになった。

4 池田内閣の日中関係は,いわゆる政経分離路線の下に徐々に貿易関係を拡大していく形で交流が進められた。佐藤内閣における日中関係は,ヴェトナム戦争の激化と佐藤内閣の対米支持等の要因によって池田内閣時よりも冷却化したが,続く田中内閣において首相が自ら訪中する形で日中国交正常化が実現することになった。

5 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻により,新冷戦と呼ばれる米ソの対立状況が生まれた。しかしながら,当時の大平内閣の対応は西側の一員としての態度表明を一貫して回避するもので、あった。このため大平内閣は,アメリカ政府から強い抗議を受け退陣に追い込まれた。

解答

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