試験結果からも見える「優秀な情報系学生ほどIT企業に行かない」

この記事に興味がある人は、さらに本質に踏み込んだこちらの記事「SIer・ベンダーSEの情報処理技術者試験の合格率が低い理由」も非常におすすめです。

2016年4月17日に第一回情報セキュリティマネジメント試験が実施され、5月16日に合格発表がありました。

今回の合格発表では情報セキュリティマネジメント試験と基本情報技術者試験の合格発表が行われ、他の応用情報や高度試験の合格発表はさらに一ヶ月後です。

そして情報処理技術者試験を実施している経済産業省所管の独立行政法人情報処理推進機構(IPA)は合格発表に対する見解を公式発表しました。

以下は情報処理推進機構が掲載している表です。またこの表は情報処理推進機構が公表している統計データから各自計算して作成することもできます。

student-vs-businessman

着目するべき点は基本情報は社会人のほうが合格率が低いことです。

基本情報は離散数学やプログラミングなど理系の学生に有利で文系には不利な試験であり、理系は学生の間でも受かってしまうが文系だと難しいため、社会人になってから受ける人が多い文系の不合格率の高さが基本情報の社会人合格率を押し下げているのです。

さらに勤務先別でみると情報セキュリティマネジメントも基本情報も非IT系企業の方が合格率が高くなっています。

情報セキュリティマネジメントほど簡単な試験ですら、非IT企業よりIT企業の方が合格率が低いというのは驚きです。

これは理系で情報工学を専攻してきた私の雑感と同じです。

優秀な学生ほど官公庁や金融に就職し、あまりできない学生ほど総研などのIT系企業(SIer)に就職して行ったのです。

優秀な学生は学生のうちに受験すれば受かります。学生のうちに受験しなくても社会人になってから受ければ無勉でも受かります。一方で学生のころ可の単位ばかりであり単位数もギリギリでバイトしかしていなかったような人は、たとえ理系の情報系で大学院修士課程まで出ていても社会人になってから応用情報を受けている総研SEで落ちている人を多数みかけます。

 

このように非IT企業の方が学術的に難しい基本情報合格率が高いという結果になったのも納得です。理系の情報科学・情報工学を専攻して大学院修士課程まで出た人の中で優秀な人は国家公務員などの官公庁か金融機関に就職しました。私もその1人です。あるいはJAXAや三菱重工などの数学を使う航空宇宙産業です。

 

独立行政法人情報処理推進機構は業種別の応募者数、受験者数、合格者数を統計データとしてExcelで公表しています。これを計算してみるとわかりますが、金融・官公庁・製造業などの業種の合格率の方がIT系企業の合格率より高いのです。

つまり学部大学院と理系として情報科学・情報工学を専攻してきた学生のうち優秀な層は外資系証券や省庁などに行ってしまい、IT業界の中でも高給とされる某SIerでさえ「3K=きつい、きりがない、帰れない」と悪い噂ばかりを学生の頃からきいている優秀層はIT企業を選択しないのです。

優秀な理系学生から最も嫌われる原因として、IT企業は「文系でも歓迎です。数学ができなくても、プログラムを書いたことがなくても全然OKです」とかなり大きくドアを開いています。

しっかりやってきた理系の学生からすると「文系でも歓迎、プログラムが書けなくてもいいっていうなら情報工学を専攻してきた人にアドバンテージがないということか」ということで、「理系院卒歓迎。数理モデルを理解してプログラム書ける人重視」として人材獲得をしている高給な金融や、法案を書いて権力を実際に行使できる省庁に行ってしまうわけです。

 

同じことは電気電子分野にも言えるらしく、電気電子分野は理系で本当に人気がない専攻分野であり「卒業生が全然電機メーカーに入ってくれない」と採用担当者は嘆いているようですが、「理系学生に日本の電機メーカーの凋落っぷりを晒し、理系学生から魅力がないと思われてしまったメーカー企業側に責任がある」と認めている企業さえあります。

結局のところ情報処理推進機構の究極の目標である「情報処理技術者試験をもって人材を強化し日本のIT企業の力をつける」どころか、実際は学生の頃は情報系だったけれども待遇のいい金融や官公庁などの業界に就職し、学生の頃勉強していたために手っ取り早く合格できる情報処理技術者試験を受けて合格して取得資格を取り揃える道具として情報処理技術者試験を使っているのです。

IPAが行うべきことは米国で情報分野を専攻した優秀な理系学生が米国の強靭なIT企業を牽引しているという事実を認め、日本で情報分野を専攻した優秀な理系学生がIT企業に見向きすらしていないために日本は全世界どころかアジア内でもコリアも下回るIT後進国になっているという事実を認めることです。